生命保険はとにかく掛け捨てが嫌われる。思考停止の大多数の人がそのように考えている。特に年配の人。
ところが若く賢い人たちはすでに最安で掛け捨ての生命保険に入り、掛け捨てじゃない生命保険に入ることなど少しも考えず、結果的に浮いたお金を自分のために使ったり、投資したりしている。
生命保険が軒並み掛け捨てではなかった異常な時代
『生命保険はお金がもらえるものだ』という生命保険を大いに勘違いした人は、高度成長期やバブル期くらいまでに生命保険に加入した人に多い。この時代はまさに異常だった。終身保険や養老保険など、もともと掛け捨てじゃない生命保険はもちろん、掛け捨ての生命保険すら、全く掛け捨てじゃない生命保険に変化してしまっていた。
その正体は生命保険契約にある配当金だ。
生命保険契約には配当金が出る契約がある。現代では無配当の生命保険が主流で、配当金が出る契約があってももらえる配当金は雀の涙くらいだが。
さてこの配当金はなぜ出るのか。
特に掛け捨ての保険はこの配当金が出やすい仕組みとなっている。その財源は生命保険会社の利益だ。
生命保険会社は預かった保険料を資産運用にまわし、そこから保険金を契約者に払っている。そして、あらかじめ資産運用益を想定し生命保険料は割り引かれている。このあらかじめ想定した資産運用益を予定利率という。また生命保険会社はあらかじめ保険金をどれくらいの確率で支払うか想定している。そうでないと保険料は算出できない。このあらかじめ想定された保険金支払いの確率を予定死亡率という。
さて、高度成長期はこの生命保険会社が想定した予定利率は上回っていることが多く、予定死亡率を下回っていることが多かった。経済は成長し年を追うごとに資産運用益は想定以上のものとなり、どんどん平均寿命がのびて当初の想定より人が死ななくなり保険金支払いが減る。
当然、差額は保険会社の利益となる。しかしこの余ったお金の源泉は本来契約者が支払った保険料なので、それを配当金という形で返すというものになっている。
※生命保険の配当金の仕組み(予定死亡率との関係)
バブル期までの生命保険契約は配当金が多く、しかもその配当金を引き出さないままだと高利率の利息がつきさらに増えるという具合だった。このため、掛け捨ての生命保険に入っていても、契約に相当のお金(数十万単位で貯まる契約もあった)がたまっているということは多かった。
このため、バブル期を生きた人たち(つまり今の年配者)は本来は掛け捨ての生命保険なのに、生命保険はお金が貯まるものだと勘違いしているのだ。
掛け捨てじゃない生命保険とはなにか
現代では掛け捨ての生命保険に多額の配当金がたまることなどない。無配当の保険が多くなり、かつ運用利率は限りなく0に近く生命保険会社は予定利率に関して慎重に見ている。
よって掛け捨ての生命保険が掛け捨てじゃなくなるほどになることはない。
それでも掛け捨てじゃない生命保険を探す人がいる。おそらく親世代あたりから『掛け捨ての生命保険に入るなどとんでもない』とか言われているのだろう。思考停止もいいところだ。
配当金があてにならない以上、掛け捨てじゃない生命保険とは年金保険、終身保険、養老保険などを指す。あるいは医療保険などでも最近は払い込み期間が終わると保険料が全額返ってくるなどという保険があったりする。
この手の保険は皆、保障部分の保険料とは別に積み立てるための保険料を取っているので保険料が高い。
掛け捨てじゃない生命保険に入ることの愚かさ
貯蓄性の部分だけに注目して、それらの商品を純粋に投資商品とみると、じつは個人向け国債に楽々負ける程度の運用利率しかない。というか貯蓄性生命保険の利率は構造的に国債の利回りを上回ることはできない。
生命保険会社は預かった保険料を資産運用に回すが、生命保険はのちのち保険金なり給付金なりで契約者にお金を返さなければならないので、安全な運用をすることが第一に求められる。生命保険会社の貸借対照表を見ればすぐわかるが生命保険会社の資産は大部分が国債や地方債など安全性の高い投資商品となっている。
もし、年金保険など貯蓄性の高い商品を国債以上の利回りになるよう設計すると、保険会社はそれだけで恒常的に損を出すことになる。保険会社はリターンを求めてリスクの高い投資をすることはそれほどできない。また貯蓄性保険を申し込めば契約事務にそれだけお金がかかり人件費やら何やらの費用もかかる。当然それらの費用は保険料に上乗せされている。
つまりどうあっても国債の利回りを貯蓄性保険が上回ることは難しい。
端的に言えば保険会社で貯蓄性商品など加入するのと、個人向け国債でも買うのにそれほど差がない。
生命保険会社の貯蓄性商品に存在意義などほとんどない。少量の掛け捨ての生命保険と、浮いたお金で自由に資産運用するのが賢いやり方である。